「奇跡のリンゴ」 の話はご存知ですか?
青森の木村さんが完全に無農薬で栽培された、
幻のりんご のことです。
りんごを無農薬栽培で育てることは
絶対に絶対不可能といわれていたそうです。
わたしたちがイメージするりんごは
大きくて甘酸っぱい、香りのよいくだもの。
りんごの本来の姿は、
わたしたちが知っているりんごの姿より、
ふたまわりぐらい小さくて、今のりんごのような甘さはなかったようです。
それが長い年月をかけて人の手により改良に改良を重ねてできたのが今のりんご。
つまり、りんごは 最高の箱入り娘なくだもの なわけです。
逆にいえば、自然の子というより、人の子。
野生の獣でも人に飼われてしまうと、
二度と自然には戻れないというのと一緒なのかもしれませんね。。。
はじめ『奇跡のリンゴ』の本の表紙を飾る木村さんの笑顔を見たとき、
私は80歳くらいのおじいさんかと思った。
ところが1949年生まれとあるから、まだ60歳にもなっていません。
木村さんがりんごを無肥料栽培で始めたのは20数年前、
農作業のなかった日に たまたまはいった本屋の棚の一番上の
取れなかった場所にあった 「自然農法論」 を手にして
米を無肥料・無農薬でつくったことに強い刺激を受けた。
りんごでも同じことが出来ないだろうかと思い、
元来勤勉で好奇心の旺盛な木村さんは、
片っ端から農業関係の本を読みあさり、
本格的に取り組みだしたそうです。
それは苦悩と挫折の始まりであり、まったく先の見えないドラマになっていくのです。
毎年毎年、りんごが出きるどころか、害虫が群がり、りんごの木はボロボロ。
ちょっと木をゆすれば、根っこからグラグラゆれるほどに、りんごの木は弱っていった。
葉っぱも抜け落ち、まだ季節は浅いのにもう真冬のような丸ハゲ姿。
りんごがならなければ、木村家の収入はゼロ。
りんごが出来るまでの約10年程、ほとんど無収入の極貧生活で
一家7人(おじいさん、おばあさんも含め)が暮らしていったのです。
最初の7年間、葉は出てくるが花は咲かず害虫と病気の闘い。
毎日毎日害虫取りをした、いくらとっても終わらない、
だから農薬の効き目とありがたみを一番知っているのは自分だと木村さんは言い切ります。
収入のない生活が続く。。。
それでも毎日体験している作業を何とか書きとめるため
新聞屋さんで余ったチラシを分けてもらい鉛筆で書きとめた資料は実にりんごの木箱2箱になるという。
子供にノートを買ってあげることも出来ず、昼は自分のりんご園、
夜は弘前の繁華街で働くという生活を余儀なくされた。
家族にはだんだんよくなってきたな、と、言い聞かせるが
何をやっても害虫の被害がなくならない。。。
自信がなくなり世間からも変人扱いされた。
ついに自殺をかんがえ、三つ編にしたロープを持って岩木山に登った。
が、ロープが短くて用を足さなかったと笑いながら木村さんは話します。
天気のいい月夜の晩、弘前の夜景を眺めていると本当にきれいだと思い
しばらくたたずんでいると足元の草木等がりんごの木に見えた。
「これだ!!」
しゃがんで土をすくってみると、畑の匂いとぜんぜん違う。
何にもしていないのに根っこが張リ抜けなかった。畑の草はすっと抜けてしまう。
自然にはいろんな虫いて、ミミズが土をたがやす。
それがヒントになりこの粘り(根張り)が重要だと気づきます。
今まで土の上のことしか見ていなかったが大事なのは土の中だと気づいた。
夢中になって岩木山を駆け下りた。
りんご畑の雑草を抜かずに、山のように自然放置した。
たくさん虫が集まってきた。
近所の目は、余計に気が狂ったようにうつったそうです。
雑草を畑で放置することは、農作業に不真面目と見なされ嫌われるそうです。
8年目で一本の木にだけ7個の花が咲いた。
そして2個だけピンポン玉と小指の先ぐらいのりんごが出来た。
この頃りんごの木一本一本に 「ごめんなさい」 と声をかけて回った。
ついに本当に気が狂ったかと思われたのもこの頃である。
ところがその翌年畑一面にりんごの白い花が咲き乱れた、
隣人に教えられたがすぐに信用できない。
本当は、じかに見るのが怖かった。
隣の小屋越しにのぞいてみたら足がすくんで身動きできなくなってしまった。
涙は止まらない。
実がなってからも木に「良く頑張ってくれたありがとう」といって歩いていた。
今でも一本一本話しかけて歩いている。
木村さんはお隣の畑の境にあるりんごの木には声をかけなかったという。
これ以上、変人扱いされるのがつらかったからだ。
それらの木はすべて枯れてしまったというエピソードを聞けば、
すべての奇跡にも理由があるような気がしてくる。
念ずれば 花ひらく
まさに、ことわざ通りの実行力と念。
あながち、 頑張る!! という言葉を馬鹿には出来ない。。。